まちの歴史・伝統・文化
北山古墳(国指定史跡)
山陰地方で最大の規模を誇る全長110mの前方後円墳で、東郷湖の南側に位置した小高い丘陵の屋根に築かれています。5世紀前半の古墳と考えられ、勾玉・銅鏡・管玉などが出土しています。
場所 | 湯梨浜町野花他 |
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湯梨浜町役場生涯学習・人権推進課 TEL : 0858-35-5367 |
尾崎氏庭園(国指定名勝)
尾崎家住宅(国指定重要文化財)
※非公開
尾崎家は江戸時代の大庄屋で、住宅と庭園は18世紀中頃以降に造られたとされています。庭園は池泉式庭園と書院式露地を統合した造りになっており、住宅は大きな土間や寄棟造りの屋根など重厚な風格があり、伯耆地方特有の上層農家の特徴を残しています。
場所 | 湯梨浜町宇野 |
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湯梨浜町役場生涯学習・人権推進課 TEL : 0858-35-5367 |
長瀬高浜遺跡出土埴輪(国指定重要文化財)
長瀬高浜遺跡は、弥生時代から中世にかけての巨大複合遺跡で、貴重な発見が相次ぎました。なかでも最大の発見は、大量の埴輪が古墳以外の場所から出土したことです。甲冑・家・盾・藍の形をした器材埴輪で、初期のものであると言われています。
場所 |
湯梨浜町はわい長瀬 |
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鳥取藩橋津台場跡(国指定史跡)
橋津台場は、江戸時代末期、諸外国との緊張が高まった時代に鳥取藩が藩内8箇所に築いた台場の一つで、藩倉のある重要港湾「橋津湊」に築造されました。現在は波浪で前方部が浸食されていますが、元々は六角形をしていたものと考えられています。
場所 |
湯梨浜町橋津 |
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橋津古墳群(国指定史跡)
馬ノ山の丘陵地に点在する古墳群で、24基の古墳で構成され、打ち14基が国の史跡に指定されています。なかでも4号墳は古墳時代初期に造られた大型の前方後円墳で、三角縁神獣鏡をはじめ、玉・刀剣・碧石製腕輪などが出土しています。
場所 |
湯梨浜町上橋津 |
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橋津藩倉(県指定保護文化財)
江戸時代、鳥取藩は藩内に12箇所の藩倉を設置していました。当時、橋津の藩倉は15棟が軒を連ね、約5万俵の年貢米が収納されていました。年貢米は千石船で大阪に運ばれ、鳥取藩の財政を潤していました。現在「古御蔵」「片山蔵」「三十間北蔵」の3棟が残り、当時の様子を今に伝えています。
場所 |
湯梨浜町橋津 |
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倭文神社 しとりじんじゃ
伯耆国一ノ宮として知られ、延喜式神名帳にその名が見られる格式のある神社です。創建は明らかではありませんが、伝えによると大国主命の娘、下照姫命が出雲からこの地に着き、御冠山を背後にしたこの社地に住居を定めたと言われています。戦国時代の戦乱の影響を受けるまでは、社殿は広大で1,000石の御朱印地だったといわれ、その後有力な武士の寄進をうけて存続し、天文23年(1554)尼子晴久が社殿を造営し、元亀元年(1570)南条宗勝が復旧しております。現在の本殿は文化15年(1818)に建てられたものです。本殿裏にある「はねり」(タブの木)は樹齢600年に及ぶ御神木で、「乳神さん」とも言われ、昭和53年に倒れてしまった現在も十数種類の植物が寄生し、強いオーラを放っています。毎年5月1日の例祭は、「一宮さん」として親しまれています。
場所 |
湯梨浜町宮内 |
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松尾神社(湯梨浜町野花)
鎌倉時代、東郷湖周辺は京都・松尾大社の松園だったため、松尾大社領荘園の守護神として、神霊を勧請して創建されたものと推定されています。現在の本殿は、宝永3年(1706)に建てられたもので、室町時代には南条家の祈願所になっており、永禄5年(1562)11月9日、南条元清から社領75石の寄進を受けています。古来より酒造りの神として広く崇拝され、例年12月13日、酒造祭が行われています。
場所 |
湯梨浜町野花 |
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二十世紀梨の木「百年樹」
二十世紀梨は鳥取県の特産品として有名ですが、なかでも湯梨浜町の梨は、昔から質・量ともに最高で日本一といっても過言ではありません。明治21年、千葉県で発見され育成された二十世紀梨の苗木10本が、明治37年、初めて鳥取県へ導入されました。当時、長十郎などの赤梨が栽培されていましたが、二十世紀梨の品質の良さから、接木によって品種改良を加えました。この百年樹は、明治39年、久見の更田安佐衛門が、三朝町出身の技師高田豊四郎から枝を譲り受け、早生赤梨に接木をしたもので、湯梨浜町二十世紀梨栽培の歴史を物語る古木です。幹回り約2m、枝は東西約14m、南北約16mに広がる全国屈指の梨の巨木は、関係者によって大切に管理され、今でも多くの実をつけています。
場所 |
湯梨浜町久見 |
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羽衣石城跡 うえしじょうあと(県指定史跡)
標高372mの羽衣石山にあり、貞治5年(1366)南条氏の始祖南条貞宗が築城したといわれています。大永4年(1524)8代宗勝の時、尼子経久の攻略により落城し、尼子氏の支配となり経久の子である国久が配置されました。その後毛利氏に滅ぼされ、永禄5年(1562)頃、宗勝が城主に復帰しましたが、宗勝の子元続が毛利氏を離れ、羽柴秀吉に与したため城を奪われます。天正10年(1582)豊臣・毛利の和睦が成立し、元続が城主となり東伯耆を領有しましたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで南条氏は西軍についたため、戦後城を追われ廃城となったのです。山頂には本丸や虎口、曲輪など城の遺構が確認されており、県の史跡に指定されています。平成2年には模擬天守が再建され、展望台からは東郷湖や日本海の美しい景色を一望することが出来ます。
場所 |
湯梨浜町羽衣石 |
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羽衣伝説 はごろもでんせつ
羽衣石山で天女が水浴びをしていたところ、麓に住んでいた男が、岩の上に脱ぎ置かれた天女の羽衣を取って帰ってしまいました。天女は天に帰ることが出来ず、羽衣山の麓に降りてきて、その男の妻となりました。そして二人の子供を授かりましたが、男は羽衣のことを一切妻には話しませんでした。そんなある日、天女は二人の子供に羽衣のあり場所を聞き出し、羽衣を着ると、そのまま天へ帰ってしまったのです。残された子供たちは、母を慕って泣き悲しんだということです。山頂近くには羽衣を干したといわれる大きな岩があり「羽衣石」と呼ばれ、その石のある山を「羽衣石山」と呼ぶようになったということです。
場所 |
湯梨浜町羽衣石 |
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羽衣岩 はごろもいわ
天女が舞い降りた時、羽衣を置いた大岩で「影向石(ようごういし)」(羽衣石)と言われています。また、この石の上には天女の足跡が一つ残っており、そばには小祠が祀られています。
場所 |
湯梨浜町羽衣石 |
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羽衣池 はごろもいけ
現地の説明板には「お茶の水の井戸」と記されています。昔、羽衣石城の城兵の貴重な飲用水として使われていたと思われ、羽衣石南条記には「清水、北洞より湧き出、大干魃といえども乾くことなし」と記されていますが、「この井戸を汲み干すと大雨が降る」との言い伝えも残っています。また、天女がこの井戸で水浴びをしていたという伝説もあります。
場所 |
湯梨浜町羽衣石 |
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伯耆一ノ宮経塚出土品(国宝)
伯耆一ノ宮経塚は、古くは下照姫命のお墓だと伝えられ盗掘が絶えませんでした。大正4年(1915)数人が無断で塚を掘り、中からお経を入れた銅鏡筒・金銅仏・銅鏡・桧扇・短刀・刀子・玉類・銅銭・漆器などを見つけました。銅経筒は高さ42cm、表面には15行237文字の銘文が刻まれ、ずっと後の世まで釈迦の教えを説いた経典を残そうというタイムカプセルのようなものであったのです。出土品は、大正9年に国宝に指定され、現在東京国立博物館に展示されています。経塚も昭和10年、国の史跡に指定されています。
場所 |
湯梨浜町羽衣石 |
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湯梨浜町役場生涯学習・人権推進課 TEL : 0858-35-5367 |